南風
HAE
琉球新報2019年1月〜6月掲載

2019 / 1 / 11 <南風>息子の儀式
はじめまして。半年間お付き合いいただきます、糸数未希と申します。人気ラジオパーソナリティーの方と漢字は違いますが同じ名前です。年齢も彼女より一回り上なので、時々、初代と名乗ったりします。私は会社勤めをしておりますが、それ以外に地域で三つほど子どもたちに関わる活動をしています。自分の子育て、地域活動、興味・関心のあることを、思うまま、感じるままにお伝えしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
さて、新年が明けましたがみなさまの中にはこの時期に古いものを新しいものに買い換える方もいらっしゃるでしょうか。わが家では、特に衣類に関して買い換える際のルールがあります。とは言っても、大したことではないのですが、「ありがとバイバイ」と言って、古い衣類にありがとう、と感謝してから手放します。
特に小学校高学年の息子は、成長期ということもあり、この前買ったばかりだと思っていた靴下や靴に、穴が開き、さらに履き続けてボロボロとなり、あっという間に「ありがとバイバイ」になります。ある時、息子の靴を買い換えて、新しい靴を彼に渡したところ、「ちょっと待って。」と言って、なにやらゴソゴソと古い靴を持ってきました。
私はいつものように、古い靴に「ありがとバイバイ」をするのだと見ていましたが、そうではなかったのです。彼は、古い靴と新しい靴をそれぞれ右手と左手に持ち、それからそのかかと同士をトンと合わせて、まるでバトンタッチのようにするではありませんか。
「おぉー。おぬしは新しい儀式を始めたのか」と親ばかながら感心してしまいました。古いものから新しいものへ。ありがとう、と手放すことは、古いものがそこで終わるのではなく、バトンタッチをしてつながっていくことなのかもしれません。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 1 / 25 <南風>「NO」という希望
私は、辺野古新基地建設に反対だ。そして、ハンガーストライキで県民投票の大切さを訴えた、元山仁士郎さんの勇気と行動に感謝している。でも正直に言うと、最初に県民投票について聞いた時は、「きっとまた何も変わらないのに、投票して何になるの? 意味あるの?」と心の中で思っていた。そんな時、ある経験を思い出した。
2009年11月8日、「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」が開催され、それに合わせて私は新基地建設を止めたくて、みんなの声を届けようというプロジェクトを立ち上げた。そして約400人の賛同を得て、それぞれのメッセージを15センチ四方の布に書いてもらい、パッチワークのように縫い合わせた、縦150センチ、横8メートルの大きな旗を作り、大会当日に会場外に掲げた。その旗には、当日会場に参加できない方からのメッセージも多くあり、共に気持ちを伝えることができた。
あれから9年がたち、先日の新聞に載っていた航空写真には、青いはずの辺野古の海が、黄色い土砂に埋め尽くされていて、想像以上にひどくて、ショックだった。心の中で辺野古の海と生き物たちに、ごめんねと謝っても元には戻らない。当時も今も、変わらない現実。だからこそ、悲観し、仕方がないで終わらずに、現実が変わるまで行動し続けること、沖縄からしっかりと何度でも「NO」と伝え続けること、それが私のできること。辺野古が他人事のような日常生活を送っている私でも、県民投票があるおかげで、「NO」と意思表示ができる。これからもありとあらゆる機会を利用して、積極的に意思表示をしていこう。県民投票に参加しよう。そして私は、NOと言い続ける。
ガンジーは「善きことは、カタツムリの速度で動く」と言った。その言葉を信じて。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 2 / 8 <南風> ザンジバル
タイトルを読んで、ピンと来た方はきっと、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たに違いない。そう、ザンジバルはクイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーが生まれた島だ。そこは、アフリカ東海岸のインド洋に浮かぶ島でタンザニア連合共和国に属するリゾート地。実は家族でその島に行ったことがある。まさかアフリカに行けるとは思ってもみなかったが、タンザニアに住んでいた友人家族をたずねて未知なるアフリカ大陸へ冒険の旅に出た。
冬の関西空港からアムステルダム経由で夏のタンザニアへ。治安が悪いため、ふらふら街に出歩くことはしなかったが、車から見える細身にカラフルな衣装をまとったマサイ族の姿が、いかにもアフリカだった。到着3日目にザンジバルへ向かった。高速船で約2時間。外国なのに、なんとなく那覇から久米島フェリーに乗っている感覚に似ていた。現地での必須アイテムはミネラルウオーターと蚊よけ。蛇口の水は飲めず、口に含んでもおなかに雷が落ちる。またマラリア蚊は日没後から日の出までの間に活動するらしく、ホテルでも、夕方になる前に頭を布で覆ったムスリム女性が部屋に来て、蚊よけスプレーをまいている様子はエキゾチックだった。
ザンジバルは人口の9割がイスラム教徒で、世界遺産の街並み「ストーン・タウン」はイスラム文化の影響を受けている。入り組んで迷路のようだが、治安は良く、ところどころにあるローカル屋台の食べ物をつまみながら、道に迷うのが楽しかった。スパイスツアーに参加し、さまざまな香辛料の実やフルーツを食べ、ガイドと一緒に家族みんなで「ジャンボ!」と歌ったことが忘れられない。今、娘は高校生、息子は春から中学生。最後の家族旅行だったかもしれないと思うと少し寂しい。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 2 / 22 <南風> 米百俵の精神で
昨年6月、新潟県長岡市に行く機会を頂いた。長岡市は毎年、人づくりに大きく貢献している個人または団体に与えられる「米百俵賞」を贈呈しており、私の活動している団体が受賞することになった。新潟に行ったこともなく、日本史にも関心の薄い私だが、この賞の由来と史実を知り、大変感銘を受けた。
それは、明治時代の長岡藩にいた大参事であり教育者の小林虎三郎が、戊辰(ぼしん)戦争で敗れた藩の復興を任され、分家から頂いた救援物資の米百俵を、藩士に食料として分配せずにお金に換えて学校を建て、教材を準備し、優秀な教師を集め、多くの青少年が教育を受けられるようにしたのだ。その日の食べものさえ十分になく困窮していた長岡の人々は、当初は反発したものの、人を育てることこそが町をつくる、という虎三郎の説得を受け入れ、長岡は新しい町としてよみがえった。
「食えないからこそ教育を」という米百俵の精神とは、虎三郎と長岡の人々の覚悟と忍耐だったのだと思う。学校を建てたからと言って、すぐに立派な町になり、食うのに困らなくなるわけではなく、決して楽な道のりではなかったはずだ。しかしその先に、子どもたちに誇りを持って語り継ぐことのできる輝かしい将来を思い描いていたに違いない。
さて、沖縄はどうだろう。私たちは、その日暮らしで目先のことだけに囚(とら)われていないだろうか。私たちは、より良い将来のために、困難な明日を選ぶ覚悟と忍耐を持つことができるだろうか。子どもたちに誇り語れる沖縄の輝かしい未来を手渡すことができるだろうか。
私たちは100年後の沖縄を、希望を持って明確な将来像で語れるだろうか。そんなことを語り合える場がもっとあってもいい。
米百俵の精神は、今こそ私たち一人ひとりに必要なのではないか。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 3 / 8 <南風> I have a dream
17年ほど前から、市民活動に携わっている。NPO(非営利団体)活動とも呼ばれるが、地域の課題を地域の人が力を合わせて解決に向けて動くというものだ。これがすごく楽しくて、気付けば四つの活動の代表を務めてしまっている。その活動の一つが第41回琉球新報活動賞をいただいた。この場を借りて、推薦くださった方々、そしてこれまで支えてくださったサポーターの皆さまに心から感謝と喜びの気持ちを伝えたい。ありがとうございます。
私がこのような活動を始めたきっかけは、意外にも私の勤める会社の上司の一言だった。「みーきー、社内保育所を作ったらどうか」。そこから、保育のほの字も知らない私が、文科省内保育所へ見学に行ったり、運営会社に電話をしたり、保育に関する講習会に参加したり、社内アンケートを取ってニーズ調査をしたりと、あらゆる情報を求めて動いてみた。結果、社内保育所はできなかったが、私の世界は確実に広がり、現在関わっている四つの活動へとつながっている。
きっかけとなった上司は、私に夢を語ってくれた。そして実現していた。だから、私にもやりたいことは、どんどんやれといつも後押ししてくれた。私が躊躇(ちゅうちょ)せずに、その後もいろんな活動に関われたのは、彼の影響が大きい。夢は子どもの専売特許ではない。夢を持っている大人はかっこいい。だから私も声を大にして伝えたい。私には夢がある。沖縄の子どもたちが生まれ育った環境に関わらず、なりたい自分になることを、大人が応援できる社会を目指したい。夜が明けて、新しい一日が始まるときを、悲しみや苦しさで迎える人の肩に、そっと手を置く存在がある世の中にしたい。違いを認め合い、歌ったり踊ったり、冗談を言い合える、心に遊びのある社会を。私にはそんな夢がある。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 3 / 22 <南風> 沖縄の中心で愛を叫ぶ
突然ですが、私の夫はハンサムです。しかも心もとても優しくて、私よりずっと愛情深く子どもたちのことを思っています。性格は真逆と言っていいほどで、私は外に出て活動することが好きですが、彼は哲学家タイプでいつも物事を頭の中で深く深く考えています。
大雑把(おおざっぱ)で手抜きが得意な私と、繊細でキャラ弁まで作れる夫。お互いが異なる特質を持っているおかげで、バランスが取れていると感じています。結婚して17年たちますが、人生の選択で彼を伴侶として選んだことが、私の今までで最高の選択です。二人の子どもにも恵まれて、健康に育っています。もちろん、みなさまと同じように家庭生活にはいろいろありますが、ジェットコースターのような人生を楽しんでいます。
私には最近見た忘れられない映画があります。「リリーのすべて」という世界で初めて性別適合手術を受けた芸術家とその妻の話です。主人公は夫の方です が、愛する夫が女性として生きる決意をしてからの妻の葛藤と、それでも彼に寄り添い、彼が女性として生きる道を支える妻のその姿がひときわ心を打つ作品です。
映画を見終わった後、感動に浸りながら考えました。もしも、私の夫が女性だとカミングアウトしたら。それでも私は彼と一緒に居られるか。答えはイエス。私にとって夫は男性や女性という性を超えた、大切なソウルメイト(魂の友)なのです。人生の荒波を一緒に乗り越え、幸せになることを約束した特別な友なのです。
世の中には愛妻家もいますが、愛夫家なんてどうでしょう。妻のみなさん、夫を愛していると、大好きだと叫んでみませんか。照れ笑いの後に幸せな気持ちがフワッと湧き出ると思います。ちなみに、こんなタイトルにしましたが、セカチューを見たことはないです。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 4 / 5 <南風> 卵の殻を破らないで(上)
娘は小学4年生から中学校までの約6年間不登校でした。
毎朝、今日は学校に行ってくれるだろうかと期待と不安を抱えながら後ろ髪を引かれる思いで出勤し、仕事の合間に学校に電話を入れ、登校できなかったことに落胆し、夕方帰宅中の車内で、今日も行けなかった娘にイライラしました。
家に帰ってから、「なんで学校に行けなかったのか、今日こそきちんと理由を言いなさい」「いったい何が原因なの」と、毎日尋問を繰り返していました。
「うちでダラダラ過ごして、なまけているんじゃないの」「母さんはめったなことでは学校を休まなかったのに、あんたはなんでそんなに簡単に学校を休むの」。そんな怒りを日々感じていました。責め続ける私の前で、どうしてか分からないけど、学校に行けないと、娘は何度も泣きました。
私には理解できませんでした。こんなやり取りがしばらく続き、いつしか私は娘を学校に行けない悪い子として見ていました。そして私たちは機能不全親子となりました。会話が減り、笑顔が無くなり、険悪なムードが漂う中、それでも親としてどうにかできないかと悩んでいたどん底で、信頼できるカウンセラーの友人にアドバイスを求めました。
「まずは彼女を一切否定せずに受け入れることからやってみてごらん」。そこから、私はアドバイス通り、責めたい気持ちを封印し、学校の話題は避け、「今日もうちでゆっくり過ごせたかな」「気分はどう」「ご飯はおいしかったかな」「明日は何作ろうか」。そんな会話を交わし、今日もあなたが元気でよかった、ありがとう、と伝えるようにしました。
現状を受け入れることで精いっぱいでしたので、最初はぎこちない声かけでしたが、閉ざしていた娘の心がだんだんと開き始め、会話が増えるたびにうれしくなりました。次回に続く。
(糸数未希、にじのはしファンド代表)
2019 / 4 / 19 <南風> 卵の殻を破らないで(下)
半年もたたないうちに、娘が笑顔を取り戻し、そこから私たち親子の関係は劇的に変わりました。
私は不登校の娘を持つ不幸な母親から、娘の笑顔と信頼を取り戻した幸せな母親になりました。娘が学校に通わないという選択を受け入れたことで、それ以上悩むことはなくなりました。娘が不登校だったおかげで、今まで知らなかった世界を知り、価値観が広がりました。その後、娘は通信制・単位制高校に入学し、海外留学を目前に控えています。
自然界において親鳥は、ひながかえるまでひたすら卵を温め続けます。雨が降ろうが、嵐が来ようが、ひなが殻を破り出てくるまで温め続けます。以前の私は、娘という卵を温めていましたが、周りのひながかえるのに、自分のひながまだかえらない、どうしよう、大丈夫だろうかと不安になり、思わず卵の殻を私が破ろうとしていました。でも、そんなことをしたら、外界に出る準備が整っていない未熟なひなは死んでしまいます。
もし私があのまま、娘の卵の殻をつつき続け、破ってしまっていたら、娘は今私のそばにはいなかったでしょう。親鳥のように、何も疑わず、かえると信じて温め続けることが親の役割なのだと思います。そして、娘が私を見捨てずに、親として育ててくれていることに心から感謝しています。
しかし時々、一生懸命に温めている横から、容赦ない批判の強風が吹きつけ、親鳥の体力を奪ってしまうこともあります。どうか、卵をかえそうとしている親鳥にも、柔らかいわらの差し入れや、栄養となる言葉をかけてほしいのです。
現代社会は早さ、正確さを常に要求されます。私たち大人は、それを子育てに当てはめていないでしょうか。子どもたちを信じて待つ力を持てますように。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)
2019 / 5 / 3 <南風>ゴールの先にあるもの
前回、娘の不登校を書いたコラムについて、多くの方々から温かい励ましの言葉をいただきました。ありがとうございます。娘からは「あの頃、お母さんより私の方がつらかったのに、お母さんが感謝されるのはなんか腹立つ」と、もっともなコメントをいただいております。
実はもう一つ、忘れられない経験があります。そして、今でもあれでよかったのだろうか、と思い出すことがあるのです。
娘が幼稚園年長の運動会でした。いろんな出し物が終わり、メインのかけっこになりました。年長の子どもたちは、一番長いトラック一周コースです。用意ドン!娘も順調にグングン走っています。最初のカーブを曲がり、直進、そして最後のカーブに差し掛かったその時、体重をかけた左足が支えきれずに左側に倒れてしまいました。左側の全身を強く打った娘は「いたいー、いたいー」と泣いていました。夫も私も娘のもとに駆け寄りませんでした。泣く娘をじっと見つめながら、私も泣いていました。「あなたは立ち上がって、ゴールまで行ける」。そう信じて、そう願って、全身全霊の祈りを娘に込めました。娘は間もなく、いたいよーと泣きながら立ち上がり、歩き始めました。周囲の大人も、がんばれーと娘を応援しました。そして娘は最後まで歩ききりゴールしました。
「あの時、親として本当にあれでよかったのか。痛いと泣く娘に一番に駆け寄って、痛かったね、でも大丈夫だよと抱きしめた方がよかったのではないか」と。夫も、「今でもあの時、助けに出て行けていたらと思うよ。でも、そうしたら彼女のがんばりを台無しにしてしまう」と言います。この話をすると、いつも涙が出てきます。なぜでしょう。子育てって難しいですね。ゴールの先に何があるのかは娘しか知らないのでしょう。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)
2019 / 5 / 17 <南風>愛し合える距離感
数年前に開催した夫の書展で、妙に目にとまった作品があり、今回はそれをタイトルにしてみた。
人と人との間にはほどよい距離というものがある。近くにいても平気な人と、なるべく遠ざけたい人。どんな人とでもある一定の距離をおく人もいるし、大丈夫かと思うほど誰にでも至近距離の人もいる。わが家には、ゆきという白い雄猫がいる。人にくっつきたがりで初対面でもおなかを見せ、そのかまってちゃんぶりは犬のよう。動物にも距離感があるようだ。
タイトルの言葉に戻ろう。私は人が愛し合うとは、物理的にも精神的にも近くて、理解し合って、融合するものだと信じていた。でも、こんな経験があった。
私はクリスチャンで、大学を休学し、宣教師として伝道活動をしていた時期がある。宣教師は基本的に二人一組で、トイレと風呂以外はいつも一緒でなければいけない。ある日、新しい同僚と組むことになり、一軒家のアパートに引っ越した。でもそこは、すでに他の宣教師で満室。私たちはしばらくリビングで寝ることになった。同僚はひどく動揺し、部屋のほこりがひどいと言って文句を言い始めた。伝道一筋だった私は、そんなことはどうでもよかったので、彼女を無視した。
彼女の心の嘆きに無関心だった私は、当然彼女から嫌われ、心を通わせることもなかった。キリストは隣人を愛せよと教えたのに、このありさま。そして、彼女とは4カ月過ごして後、互いに別々の同僚が決まった。そのときの彼女のうれしそうな笑顔は苦い思い出だ。でもおかしなことに、離れて間もなく彼女は私に笑顔であいさつしたり、元気だったかと声をかけるようになった。距離が私たちをを近づけたのだ。
皆さんの身近な人はどうだろう。近くていいのはコンビニくらいかもしれない。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)
2019 / 5 / 31 <南風>架け橋となるために(上)
18歳の頃、私は高校を卒業し、本土の大学に進学した。受験勉強から解放され、1人暮らしの自由な時間、空間にワクワクしていた。近くに高校時代からの友人も住んでいたし、何かあれば相談できる環境があった。親からの仕送りや、バイトもしていたから経済的な心配なんてなかった。そんな大学生活が当たり前だった。
もし18歳で、今まで住んでいた家を出て、戻ることも許されず、頼れる人もいなかったら、私はいったいどうなっていただろう。進学の選択はあっただろうか。困った時に、一人で悩む以外に、何か方法を見つけられただろうか。悪い手口にだまされず、生活にも困ることなく、しっかり稼げていただろうか。
虐待や貧困などの理由から親と暮らせず、施設や里親家庭、ファミリーホームで生活する子どもたちは高校卒業後、公的支援が終了し、自立を余儀なくされる。頼れる親や家族はいない。そのことがどれだけ生きる上で困難であるか、想像できるだろうか。
2011年1月、県内の児童養護施設を訪ねた。そこで当時大学2年生の男子学生と出会った。彼は県外の大学に進学し、成人式で地元に帰ってきていた。そんなめでたい席で、彼は将来の不安を抱えていた。来年度から大学に通い続けるための資金が底をついていた。奨学金を取り、バイトをして、それでも足りなかった。施設も彼を経済的に支援することはできない。
私は何不自由なく大学を出たのに、その一方でつかんだチャンスをあきらめなければならない学生がいる。この違いは何なのか。私は彼の生まれ育った環境のせいにしたくはなかった。彼と出会った一人として、私が周りに大事にされてきたように、あなたも大事な存在だと示したかった。そして私は、彼を必ず卒業させようと決意した。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)
2019 / 6 / 14 <南風>架け橋となるために(下)
施設からの帰り道、同行した友人が「首里奨学母の会」について話してくれた。1960年代、首里の母親たちが経済的に勉学を続けるのが困難な子どもたちのために、豆腐一丁のお金を節約し、奨学金にしたというのだ。
早速、先輩方を見習い、現代版の豆腐一丁を千円に設定し、児童養護施設出身のその男子学生が卒業するまで、毎月仕送りをするための寄付集めに奔走した。
娘と一緒に考えた会の名前は「にじのはしファンド」。虹色のようにいろんな可能性を持つ子どもたちと応援したい大人たちの架け橋となって、進学を経済的にサポートすることで子どもたちの未来に投資するという思いを込めた。
家族、親戚、友人、職場、高校同窓会や小学校の飲み会など、どんな集まりでも賛同者を募った。思い立ったら即行動という私の習性を知っている、面倒見のいい高校からの友人は「あんた一人では大変だから手伝うさ」と、快く巻き込まれてくれた。
彼女の大きな助けに感謝している。活動の輪は県内外に広がり、今まで44名の子どもたちを応援してきた。事務局運営を担ってくれる友人たち、これまで磨いたスキルを惜しみなく提供するシニアメンバーもいて、とてもありがたい。
さて、前述の男子学生は支援者からの温かい仕送りのおかげで、無事に大学を卒業し、念願の福祉職につき、結婚し3児のパパになっている。
しかし、彼のように順調に卒業し就職している子は少ない。入学後に心身の不調が現れたり、経済的困難で中退する学生たち。決断の前に、相談してくれていたらと思うことが何度もあった。そこで、彼らが安心して頼れる居場所をつくる「実家プロジェクト」を始めている。温かい食事と寝転がれる空間。架け橋としての役割はまだ続く。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)
2019 / 6 / 28 <南風>幸せの連鎖
小学生の頃、大好きだった「とまり子ども図書館」は崇元寺石門近くの源河医院の2階にあった。源河朝明先生が地域の子どもたちのために開放し、奥さまがいつも優しい笑顔で迎えてくれた。そこに行けば「キャンディキャンディ」のマンガが読めて、季節ごとのイベントもあって、友だちと一緒に遊べる憩いの場だった。地域で子育て支援活動を始めてしばらくたった頃、その時の思い出がよみがえり、いつか私もそんな居場所をつくりたいとの思いを温めていた。そしてチャンスがおとずれた!!!
2016年9月24日、那覇市松川に「にじの森文庫」をオープンした。きっかけは、にじのはしファンドサポーターで会社経営者の三浦清忠氏が大阪から来沖した際に、私がその夢を話したことだった。彼は即答で「ぜひやりましょう」と言い、翌週には大きな大きなご寄付が口座に届いた。驚きと感謝で、私の本気スイッチは全開。以前からお世話になっているレキオスホールディングスさんが物件探し、内装工事、レッドカーペットの開館式までプロデュースしてくれた。
肝心要の人材は、地域の肝っ玉母ちゃん、伊志嶺幸美さんが初代館長を務めてくれた。わずか3カ月という強行スケジュールで、テンションの上がるちょっとおしゃれな子ども図書館が出来た。
三浦氏はさらに千冊を超える絵本やマンガをご寄付くださった。他にも心温まる物心両面の応援を友人、知人から頂いた。オープン当日の朝、ふと見上げると、空高く舞う龍のような雲と虹(にじ)が門出を祝福してくれていた。現在週2回開館し、大繁盛。地域の大先輩も看板娘として活躍中だ。幸せな記憶は次へと引き継がれていく。この場所が私の体験のように幸せな記憶のひとつになれたら。そんな連鎖が生まれることをひそかに願っている。
(糸数未希、NPO法人にじのはしファンド代表理事)